講解説教

 旧約新約聖書。中学から高校にかけて読み通したことはあるのですが(礼拝中に読める本はこれだけだった)、基本に返って聖書を読み通そうと考えたわけです。しかし単純に再通読しても得るものが小さそうだったので、いわゆる講解説教本を読んでおります。

 四福音書については加藤常昭牧師の著作で以下のものがありすでに読了。

主イエスの譬え話


主イエスに出会った人びと



主イエスの生涯〈上〉

主イエスの生涯〈下〉


 四福音書。信仰の導入部となることが多いと思います、今回読んでみるとヨハネ書だけ理屈っぽいところもあり、切り口がやや異なっているのかなと。
 イエスの生涯とその十字架上の死が人の罪を贖うためのものであること、旧約聖書の律法では人は救われないということが、四福音書を通してこの講解説教では述べられているわけですが、この辺を良く理解するにはやはり旧約もきちんと読まなければわからないのかなと。

 続いて新約聖書そして聖書全体の最終章であるヨハネの黙示録についても、加藤常昭牧師の以下の著作を読了。

講解説教 ヨハネの黙示録〈上〉

講解説教 ヨハネの黙示録〈下〉


 黙示録。タイトルだけ先行というか流布されていて変なイメージがついていますが、決しておかしな文書ではなく、弾圧の中で信仰を守ろうとした牧師のあついメッセージだということが、この講解説教を読んでよくわかりました。


 新約は続いてロマ書を読もうかと思います。パウロによる福音書とかかれている文章もあり、パウロの持った信仰原理について理解できないものかと。

 さて旧約ですが、最初の章である創世記と、興味のあったヨブ記の以下の2書を読了。

講解説教 ヨブ記


創世記講解説教
山田京二

 ヨブ記講解はやや文章解釈に偏った説教でしたので、もうすこし説教くさい本もそのうち読めればと思います。結局は神の計画(原理)は人の計画(原理)を超えているから、人の知恵で勝手に判断してはだめということでしょうか。

 創世記は、人のとことんアホな行動が描かれています。こんな歴史を自分の民族の出自として世界中に流布しているユダヤ民族、ある意味すばらしいような。結局このような悲惨な(そして愚かな)歴史とその反動としての律法主義が旧約聖書を貫いているわけで、この旧約の思想の中には救いが見つからないということになります。そのような袋小路から救出してもらうための神との間の執り成しのためにイエスが十字架の上で死ななければならなかったということです。

 単純に新約だけの思想であれば人が何から許されるのか、何を神との間で取りなしてもらう必要があったのかが出てきません。やはり旧約と新約の両方をセットで理解しなければキリスト教の原理が見えてこないということだと思います。

 続いて順番通りモーセ五書出エジプト記でしょうか。