The God Who Embraced Me


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The God Who Embraced Me
by John W. Fountain

私を抱いてくれた神のこと

John W.FountainはIllinois大学Urbana-Champaign校のジャーナリズム学の教授である.Chicaog TribuneやWashington Postの記者であり,New York TImesの記者でもある.氏は「True Vine: A Young Black Man's Journey of Faith, Hope, and Clarity」の著者でもある.

All Things Considered, November 28, 2005 ・

私は神を信じている.しかしそれは,子供の頃母親が語ってくれたような宇宙的で触ることもできず,空の向こうにある魂で永遠の存在といったものではない.私を受けいれてくれた神は,警察がきて手錠をはめて父を連行していき,私の生活から父が消えてしまった4歳の頃から,私を抱いてくれた神だ.

ある年のChicagoの冬の風が吹きすさぶ中で,自分の吐いた息が見えるような凍てつくガスを止められたアパートの部屋で,食べるものも温かいお湯も希望もない中で,私を暖めてくれた神なのだ.

近所の子供達がそんな厳しい環境や死や希望のない生活に飲み込まれてしまうのを見たときも,神は私の手を取ってくださった.そして,自分にはだれも抱いてくれる人がいない,まるで孤児のようだという気持ちになったときに,自分の息子と言ってくれ,”全部うまくいくよ”と話しかけてくれ,私のことを自慢げに息子と呼んでくれたのだ.

私は神を信じる.父なる神,その息子である救世主キリストとして姿を現した神だ.神はその存在を感じとることを私にお許しになった.寒い午後に食べる,まるで私のおなかのようなホットチョコレートを満たした暖かさによってその存在を感じることもあった.
私が人生の大嵐の中で無価値な人間だと言われたときでも,ひとかどの人物で自分の息子だと私に語りかけてくれたその声によって存在を感じることもあった.私に名前やDNAやほかのちょっとしたものを誰も与えてくれなかった中で,わたしは神の中に永遠性を見いだしたのかもしれない.

私は神を信じる.父として,AbbaとしてDaddyとして知るようになった神をだ.子供達が父親と手をつないで歩いているのをみるといつもうらやましかった.父と息子がかわす鳥や蜂やなんでもないことについての会話に飢えていた.単に父親の息や鼓動や存在を感じたかった.子供の頃,玄関の入り口に座って通りを走る車を眺めていたものだ.ある日一台の車が止まって降りてきた男が私の父だったらと想像しながら.しかしそんなことはおきなかった.

私が18の時,1979年の冬の夜,Alabamaでついに父親と対面することができた.棺の中で冷たくなり,目を閉じ,鼓動も止まり,呼吸も永遠に止まった父親とだ.交通事故だった.酔っぱらって死んだのだ.父親なしの寂しい年月で私を困らせたままにしてだ.

父から殴られるのを怖がった母が警察をアパートに呼んだあの夜から何年も経っていた.ついにアルコール中毒が父に残っていた良いところを全部吸い尽くして,全部飲み尽くしてしまったのだ.

それから何年も経たないうちに,父の墓にひざまずき,長いことできなかった会話をして私は涙を流した.自分がどんな男になったか話し,どれだけ自分のそばに居て欲しかったか伝えた.そして自分にはこの父親はいなかったのだと実感した.そして同時に,わたしはもう一人の父親の存在を見いだした.いや,神,父なる神,わたしの父親が私を見いだしたのだ.